佐馬鷹さんの6/19付けのブログで「スケープゴート」のことが話題になった。
少し考え込まされてしまった。
スケープゴート……贖罪の山羊、犠牲(生け贄)の山羊などと呼ばれる。
社会や組織、権力機構etc.が抱え込んでいる「矛盾」「罪」「穢れ」など、誰もが見て見ぬふりをしたいと思っていることを、”社会的弱者”にすべて被せてしまう。
あるいは社会や組織内の矛盾によって溜め込まれたフラストレーション(憂さ)を晴らすために、やはり”社会的弱者”をスケープゴートに仕立てて、「攻撃」(イジメ・嘲笑・差別・賤視・蔑視)する………。
恐らく人類の歴史が始まってから現代に至るまで、世界中のどこでもスケープゴート的存在は、作られ続けているのだろう。
日本も例外ではない。
古代以来、日本の歴史には「鬼」とみなされた人々がいた。
彼らの一部は朝廷のある都から遠く離れた僻地や山中に住んでいた。
彼らは都の人々や農耕民とは全く違う身なりや生活様式を持っていた”少数派”の人々。
朝廷はしばしば、彼らを「鬼」として「退治」することによって、自らの支配する社会の矛盾・ツミケガレ、民衆の不満などを解消しようとしたのだ。
それもひとつの歴史である。
ワタシはBSで放送されている「新日本風土記」が好きでよく見るのだが、そのテーマ曲が朝崎郁恵の「あはがり」。
「あはがり」は奄美民謡のメロディをもとに、朝崎さん自身が詞を付けた歌のようである。
独特の哀調を帯びた歌は、この曲に限らず、奄美の島唄に共通しているもののように思われる。
同じ島唄でも沖縄のものとは、また微妙に違う感じがする。
十年以上前、当時の知人との会話で、やはり奄美出身の元ちとせの歌が話題にのぼったことがある。
その知人は沖縄や奄美を何度も旅していた人で、それぞれの島唄についても詳しかった。
知人は奄美の歌(島唄)が、沖縄のものとは異なって独特の哀調を帯びており、それはひとつに奄美の歴史に起因するのだと言った。
すなわち奄美はもともと琉球の一部だったが、武力によって薩摩藩の支配下に置かれるようになり、そのため、薩摩からも琉球からもある意味差別的な視線や扱いを受けるようになってしまった。
そのような悲しい歴史があるため、奄美の歌は哀しい響きを持っているのだ。
知人はそのように説明した。
ワタシは奄美の歴史は正直よく知らなかったし、今も知っているわけではない。
が、いかにもありそうなことだとは思った。
実際には彼らが歴史上、スケープゴートにされたり、あからさまな差別を受けることは無かったのかもしれない。
しかし少なくとも奄美の人々が、辛い歴史を歩まされてきたことは確かなのだ。
やはり過酷な歴史を歩まされてきたアメリカの黒人たちは、その辛い境遇をそのまま歌にし、BLUESが生まれた。
BLUESの ”blue” の意味は言うまでもない。
しかし単にブルーなだけではなく、日本の他の地域の民謡とは全く違う響きと深みを持っていると思う。
それは魂の歌である。
魂に響く歌である。
歌や芸術というのは因果なものであると思う。
それを生み出した歴史が、哀しいものであればあるほど、そこから生み出された歌や芸術は透明度を増し、魂の奥にある深みにまで達することができるのだから。
その意味では、奄美の歌は日本を代表する歌、芸術である、と思う。