何だか最近、疲れ気味だ。
年をとってジジイになったせい?
それもあるだろう。
キンドナに振り回され続けたせい?
それも……あるかもしれん。
でもそれだけではない気もする。
なんだかココロが酸欠状態なのだ。
息が苦しい。
新鮮な空気が欲しい。
さしずめワタシは金魚のようなもの。
緑に濁った水の中から
水面(みなも)に顔を出し
息をせんともがき
口をパクパクさせる金魚。
そう、ワタシは金魚。
by金魚
何かも投げ出して、誰も知らない遠い所へ、行ってしまいたい。
ここではない、何処かへ………
みたいなことを、オトーサンがブツブツ言いだしたら、家族みんなで優しくしてあげてください。
そして晩御飯は、ここではない、どこかの焼き肉屋へ。
ワタシの幼き頃の夢は、スナフキンのように生きることだった。
笑うでない。
スナフキンのように年がら年中ギターだかバンジョーだかを携えて、詩や歌を吟じながら世界中を旅して歩くのだ。
遠くの空を見すえつつ
樹上でさえずる小鳥の言葉に耳をかたむけ
足元の草花を愛でながら
花の蜜に集まる虫たちには微笑みを (笑うでない)
頭に描くはまだ見ぬ土地との出会い
まだ見ぬ理想の地……
約束の地、理想郷………それはきっと、どこかにある。
オトコってのは皆、胸の内ではそれを信じ、常に自分だけの”理想郷”を追っかけているものなのだ。
アヴァロン。
ケルトの民たちが思い描く、何処かにあるはずの楽園。 約束の地。 理想郷………。
まあ日本人にとってのリューグージョーみたいなものだろう。
アヴァロンだかリューグージョーだかを探し追い求めているうちに、気が付けば頭が真っ白のオジーサンになっちまってる、ってワケだ。
ブライアン・フェリー旦那は、このアルバム『アヴァロン』で一体何を訴えたかったのか。
人生を”踊り続ける”ことに疲れてしまった男が、魅力的な、しかし謎めいた女に「別の世界」へと誘われる。
男はそこがアヴァロン=理想郷なのかと錯覚する。
”理想郷”とはどこなのか。
アルバムタイトル曲「アヴァロン」 。
この曲では、現代に生きるヒトの、アヴァロン=理想郷への想い、その甘い誘惑が綴られている。
しかし、この曲に先立つアルバム1曲目。
アヴァロンという理想郷をテーマにして強烈なメッセージを込めたコンセプト・アルバムの1曲目である。
「モア・ザン・ディス」 。
ここでブライアン・フェリーは、
理想郷は遠いどこかにあるのではない。
ここがそうなのだ。
ここ以上のものはないのだ。
と、おおよそこのようなことを歌っている。
つまり、ワタシが、アナタが生きている、今、ここがそうなのだ、と。
ただ重要なことなのだが、「ここ」とは場所を意味していない。
彼は、ブライアン・フェリーは、「いまいるこの場所」が理想の地だと言っているわけではないのである。
今いる「この場所」が追い求めた理想郷なのだとしたら、その旅(=人生)はそこで終わることになる。
そうではないのだ。
彼は「More than here」とは言っていない。
「More than this」なのである。
これ以上のもの、これより素晴らしいもの、など無い。
人は理想郷を追い求め続ける。
理想郷を追って生き続ける。
そうやっていま生きている、生き続けている、この”瞬間”の連続。
場所ではない。
生きること。
生きている今。
このことこそが私たちにとっての「理想”郷”」なのだ。
ブライアン・フェリーは、多分、そういうことを言いたかったのだ。
ワタシは何故生まれたのか。
何故生きるのか。
人は過酷なこの世で「辛い修行」をするために、この世にわざわざ生まれてくるのだ、と説く人もいる。
あるいは、そうなのかもしれない。
しかし本当は、「この世で生きる」という理想”郷”を追い求めて、生まれてきたのかもしれない。
だとすれば、この世に生まれてきたことは、実は宝くじに当たるよりも、よほどラッキーなことなのかもしれない。
理想郷なのだから。
ワタシたちはみな、”選ばれし者”なのかもしれない。
生きること、生き続けること、
そのことこそが”理想郷”なのであり、
そのことにこそ意味がある。
そうなのだ。
キミも選ばれし者なり。まる。
(家族の遊び相手という大事な仕事に精を出すまる君)
そりゃ猫だって疲れるさ。
どこか遠いところに行きたくなることだってあるさ。
………やっとで書き終わった。
焼肉でビールといきたいところである。
どれ、カミサンの耳元でブツブツ言ってみようか。